本『空手と気』 感想
この本を読んでいてあるがんと闘っている女性のことを連想しました。ちょっとわかりにくい部分もあるかもしれませんが、はしょらず書いてみました。 ガンと戦っている方から気を感じます。まさに一瞬一瞬が真剣勝負の彼女。 ごまかしや言い訳のきかない世界に生きている彼女。彼女はトルコ人の多くの方々と同じ考えを持つムスリムです。 型をルールとおきかえてみますと、 型形骸化されていない型による稽古を通して内なる自分(身体を書き換えました)との会話を繰り返すことで思考の深さが目覚め、極める世界の入り口に立っている(または入ったのかな)のが彼女なのかなと思いました。 「学ぶべき方向は、気の源泉の思考の深さをへにきづきである。それは物の見方、考え方、生き方そのものの深さを学ぶことである。 そのためには謙虚になることだと思う。」 まさにカ彼女は神の造られた世界の深さに気が付き 、深く学び始めたという状態なのではないかと思います。だから彼女の語録集の中には謙虚というワードがかかせないのかもしれないと強く感じました。 (そりゃあそうだよね。謙虚にならざらるをえないのが人間の本来の立ち位置なんだから、そこから移動しようとしたリ、いどうしたら変になるのは当たり前のことだよね) 富も名声も権力を得ることを今の時代に生きる私たちは一生懸命に目指しているから、謙虚の居場所とは真逆の場所に私たちは移動しちゃったんだと思います。 私は気が入っていない、気を抜くことで何とか生きています。それはスポール武道的なやり方の人生を送ってきたから です。気を入れるとまたスポーツ武道的な方向を推進してしまうのが怖いから・・・ 気を抜くことで一応その方向をストップさせることができています。 周りから見たは腑抜けみたいでにみえるかも・・・ この本で言う気は造ることは死ぬまで不可能だと思うけど、やっぱし真剣にごかましなく行きたいとは思った。 本からの抜粋 競技の勝敗をきにするあまり、本来の武道と変わってきている。 術技を通して内なる自己を高めることがもくてきだったはず。 不易が流行の中で応用活用されてこそ不易の本質がある。 相対と絶対の間のフィードバックが形成されることで発展していく。 現在の流行としてのスポーツ武道から不易の武術さかのぼることで差異を見出すこと。 不易流行としての武道が真の継承である。 武...